こんにちは。
今回は標準語と方言について、少し記事を書いてみたいと思います。
標準語と方言
現在、各国の公用語とされている言語は、基本的に「標準語」というものが定められています。
日本語であれば、東京の山の手言葉を基に「共通語」(標準語)が制定され、
中国語であれば、北京語の音を標準として、北方方言を基に制定されたのが「普通話」となります。
標準語が制定されると、標準語以外の同一民族の話す言葉は「方言」として扱われます。(方言か他言語かは、政治的要因が強いです。)
そして、何を標準語とするかは、その時代によって変化してきました。
例えば、私たち日本人が日本の学校教育で国語の現代文として習うのは、「共通語(標準語)」です。
一方、同じ国語の古文で習うのは、今でいう京阪方言です。その当時は、京都が首都だったからです。
方言における標準語の影響
前回の記事でもご紹介したように、私の母語は岐阜弁と長崎の島原弁がミックスしたものです。
前回の記事を書いていて感じたのが、自分の岐阜弁は母語ではありますが、岐阜の同世代の岐阜弁だということです。
高校生の時、一日だけ老人養護施設で職場体験をしたことがありました。
その時にお話ししたのが、地元の高齢者で、当然岐阜弁を話されますが、筆者はほとんど聞き取ることができませんでした。
その時に、世代によって話される方言が違うということが分かりました。
彼らの世代から見れば、私たちの世代の話す言葉はだいぶ標準語の影響を受けていると感じられるかもしれません。
加えて、筆者は母語として島原弁も少なからず入っていて、同世代の岐阜の方々よりもさらに話せる能力は限られているでしょう。
一方、島原弁に関していえば、もちろん長崎や島原の方よりも話せる能力は限られています。
しかし、前回の記事にも書いた通り、筆者の家庭で話されている言葉は、今の島原で話されている言葉よりも古い表現が残っているということもできるかもしれません。
まとめ
標準語の使用範囲が広がることによって、方言が世代によって薄れていくのは、これまでの歴史でも幾度となく行われてきました。
これが、「言語は生きている」と言われる所以で、書式が決められている標準語においても、世代ごとに使う表現は異なる場合が多いです。
筆者の岐阜弁が共通語に近づいてきているように、筆者の家族内で使用される島原弁も、世代を経るごとに消えていくのだろうと思います。
せめてもの抵抗として、このブログに島原弁について書いておこうと思ったのでした。