ちゃいぺるブログ

中国語とタミル語を中心に、外国語学習の情報を発信します

『ピダハン』言語は単なるコミュニケーションの道具ではない

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こんにちは。

今回は、「ピダハン」の紹介記事です。

 

ようやく「ピダハン」を入手しました

以前からずっと気になっていた「ピダハン」をついに購入しました。

 

購入のきっかけになったのは、やはり「ゆる言語学ラジオ」で、この本を特集した回がありました。

この本の特徴は、言語学の話だけではなく、ピダハンの村での生活を通して考察された文化や考え方が描かれているところです。

文化人類学やフィールドワークの本としての要素も強い本です。

 

本のあらすじにはこんな一節があります。

「著者はもともと福音派の献身的な伝道師としてピダハンの村に赴いた。
それがピダハンの世界観に衝撃を受け、逆に無神論へと導かれてしまう。」

言語と認知と世界観の密接な関係がよくわかる本となっているようです。

 

日本では2012年に発行された本ですが、筆者が購入したのは第19刷版でした。

およそ9年でかなり売れていることがわかります。

 

『ピダハン』の言語と文化の考え方

筆者も常々考えていることではありますが、この本の中で著者は「言語と文化は不可分である」という旨の内容を何度も言っています。

また、著者は「文化が文法に影響を与える」とも言っています。

国語学習者はなんとなく理解できるのではないでしょうか。

外国語を学習すると、日本語にはない表現や単語に直面します。

日本語に直訳できない文章も多くあります。

巷では、「外国語はコミュニケーションの道具にすぎない」とよく言われますが、その言葉を聞くたび、モヤモヤした気持ちになっていました。

というのも、外国語はただ単に文法や語彙を適切に当てはめてアウトプットするだけの練習をしているだけではないと感じるからです。

外国語を学習すると、その言語を使う人たちの文化や歴史、世界観を学んだり、身に付けたりすることがあると思います。そして、そういった背景にある知識を身に付けないと、言語を正しく運用できなかったりします。

それを外国語の運用能力とまとめたりしますが、そういった背景にある文化等から言語を切り離して、単なるコミュニケーションツールの運用能力というのは、少々乱暴すぎるような気がします。

『ピダハン』の中で、このように引用されている部分があります。

人間が言語を介さずに現実に適応していて、言語はたんに情報伝達や思考のためにたまたま用いられる道具にすぎないと考えるのは多分に幻想である。(『ピダハン』p.304の中で引用、サピア『科学としての言語学』)

なぜなら言語は、その言語を使用する共同体特有の知識や歴史、世界観を表現するものだからです。(『ピダハン』p.381)

 

筆者もこの考え方には全面的に賛成です。

国語学習において、その言語話者の地域に対して興味を持つことは、学習のモチベーションを保つ上でも重要だと考えています。

tutty527.hatenablog.com

 

もちろん、外国語学習に対する心持ちは、学習者それぞれであって然るべきだとおもいますが、学習目標が高いレベルなのであれば、文化知識を深く持っておくことは必須だと思います。

ネイティブがその言語をどのような感覚で運用しているかを理解することに繋がるからです。