こんにちは。
長らく更新が空いてしまいました。
香港では旧正月を迎え、街もいつもの喧騒がなく、どこかひっそりとしています。
そんな旧正月の間に、今まで形にしていなかった考えをまた思い返すような作業をしていることが多かったように思います。
そこで、このブログに文章を書いて、考えをある程度固めることにします。
最近考えているのは、日本語の主観性についてです。
日本語の主観性(ゆる言語学ラジオ様々)
最近よく考えているのが、日本語の主観性についてです。
2年ほど前に、YouTubeである動画を見ました。
いつも(一方的に)お世話になっている「ゆる言語学ラジオ」さんの動画ですが、内容を要約すると、「英語は神の視点、日本語は発話者の一人称視点」というものです。
こちらの動画(37:12から)でも、英語と日本語の視点の違いについて紹介されています。
なぜ今2年も前に見た動画の内容を考えているのかというと、普段の日本語教育活動を通して、「これが本質かもしれない」と実感し始めたからです。
普段の授業で感じる、日本語の主観性の強さ
日本語を教えていると、日本語はつくづく主観性の強い言語だな、と感じます。
日本語では、あらゆるものを自分の価値観に照らし合わせて、それに適した文法を使うことが求められます。
外国で日本語学習者に日本語を教えるには、日本語を客観的に分析することが必要です。文型の意味や使い方を客観的に分析して、学習者にわかりやすくかみ砕いて伝えるのが大切です。
筆者は中国語を媒介語にして教えていますが、中国語の似たような使い方の文法を使って教えることが多いです。
特に、初級の前半ではそれでなんとかなることが多いので、あまり実感していなかったのですが、初級の後半から、中国語では直接翻訳できないような言い回しが多くなってきます。
例えば、
- 〜んです
- あげる・もらう・くれる
- てあげる・てもらう・てくれる
- 自動詞・他動詞
- てある
- 受身表現
- 敬語(尊敬語・謙譲語)
などなど、ざっと挙げただけでもこれだけ思いつきます。
そして、こういった中国語に直接翻訳できない、もしくは1対1対応が取れない表現の共通点を見つけました。
それが、すべて「主観的な表現」です。
つまり、すべて「発話者がどう感じたか」によって使い分けているということです。
例えば、「〜んです」は、相手とのコミュニケーションを前提を元に、聞いたり答えたりするときに使う表現ですが、中国語では直接翻訳することができません。
なので、導入のときには、いろんなシチュエーションを用意して、発話者の気持ちなどまで細かく言わなければいけません。
まあ、新しい文法の導入には必要なことなのですが、困るのはその後で、学習者がなかなか「〜んです」を使ってくれません。
あるあるなのが、中級・上級の学習者でも「〜んです」を適切に使える学習者はあまり多くない印象があります。
似たような例は、上に挙げた他の文型にも見られ、いずれも学習者がうまく使えないか、苦手とするところであるような気がします。
それは、やはり彼らの母語である中国語(広東語)の主観性が、日本語ほどあまり強くないからだと思われます。
主観性がないと、「上から目線」になるかも
まあ、上の表現が使えなかったとしても、ものすごく表面的なコミュニケーションはできるかもしれません。
結局は、学習者がどのレベルまで勉強したいと思っているかという問題ではあります。
しかし、上の表現が使われないコミュニケーションでは、日本人としてはまず不自然さを感じることでしょう。
日本語では「上から目線」や「誰目線」など、「目線」を使った表現が多様されるような気がしています。
それほど、日本語においては「目線」が重要視されているということの裏返しでもあるでしょう。
日本人のコミュニケーションにおいて、この「目線」の移動が頻繁に行われます。
この「目線」の移動が「日本人らしい」表現を産んでいるのだとも言えるでしょう。
この先レベルが上がり、より「日本人らしい」表現に多く出会ったときに、どの程度理解できるか、使いこなせるかは日本語の特徴をどれだけ体感で捉えているかによると考えています。
そのため、初級のうちから、この日本語の主観性を理解させておく必要があると感じています。
初級前半でも学習する、
- 「わたし」、「あなた」などの言葉をあまり使わない
- これ・それ・あれ
なども、日本語の主観性を表している表現と言っていいでしょう。
長くなりましたが、
筆者自身も、なるべく早く授業に取り入れたいと考えていますが、どのように取り入れるべきかを今考えています。
学習者が直感で理解しやすいようなものがいいですね。
ゆる言語学ラジオさんのようにキャッチーな例えが出せるようになりたい!